病んだヨギーの日々(2021年4月27日現在)

就職してしまったヨギーの雑記

人に優しく出来るこつ

外出自粛ムード高まる都内。ですが、八王子だとそろそろ出歩いてる人が増えてきて、マスクしないままの人もぽつぽつ見かけるようになりました。ただ、まだまだマスクをせずに外を歩いてると、なんとなく申し訳ないというか、、、上裸で歩いてるような、そんな感じもします。自分は絶対大丈夫だから!と言い切ることも出来ず、かといってマスクしてるのも鬱陶しいし、という葛藤。

 

人の目がやたら気になる時期を過ごし、それがまだ続きそうでもあります。そんな中で、他人に対して色々心の中で毒づいてしまっていることも。「マスクしてないのは良いとして、そんな咳すんなよ」とか、「こんな狭いとこでトロトロ歩いてんなよ」とか、「タバコ吸いながら歩いてんじゃねえよ」とか、とかとか。自分だって人に迷惑かけることはもちろんありますが、そういう時は自分がかわいいもので。人に対してイライラすることは、自分に対して余裕がなくなってくるので、辞めた方がいいのは重々承知してます。

 

人に優しく、というのは結局やっぱり自分を助ける。「まあしょうがないわな」「そんなこともあるわな」と、余裕を持って過ごしたいものです。そのために僕が、自分の経験から、これ良いな、と思い、今も使っている自分操作術を紹介してみようと思います。

 

それは、尊敬できる人を持つこと、そして、今自分がイライラを感じている相手がその人やまたは関係者であったらどうするか、と考えてみること。僕が地元の高知県で、大変お世話になった、親友のおばあちゃんがいますが、礼儀作法などしっかりしていて親切な方でした。親友の家に遊びに行くと、いつも何かしらおやつを出してくれたり、面白い話を聞かせてもらったりしました。友達など2、3人、独りで学校と図書館にいる時間がほとんどで、遊びに行くところなどその親友の家くらいしかなかった当時の僕にとって、身近の尊敬できる数少ない大人の一人でした。

 

そのおばあちゃんは足が悪く、外出の時は何かと気をつけてるということでした。ある日、僕は友人宅の近くの狭い道を自転車で走ってますと、前をよぼよぼと歩いてる老人がいました。狭い道なので、追い越すこともできず、「なんでこんなよぼよぼ歩いてるんだ、迷惑な」と思いながらその後ろからゆっくりこいでました。そう思いながら、ふと親友のおばあちゃんのことを思い出して、「なんとなく後ろ姿似てる?」と思い始めました。「いや、やっぱり違う人だ」とすぐ分かりましたが、そのおばあちゃんの知り合いかも知れないし(縫い物を教えててそのお客さんが近所に住んでるとのことでした)、例えば僕がむりやり脇を通りこそうとして、後でその方がおばあちゃんにそのことをぽろっと話して「最近の人は何をそんなに急ぐのかねえ、思いやりがなくなったねえ」などと思わせて悲しませたら、引け目に感じるだろうなあ、なんていうストーリーが浮かんできたり。

 

こういうことが、他にも、狭いスーパーの中で、図書館の書架で、ありました。が、イライラを感じそうになると、この人があのおばあちゃんと何かのつながりがあったら、という想像が働き、自分が譲れば丸く収まるじゃないか、と余裕が出てくるのでした。

 

自分のことだけ考えて、自転車で前の人を無理矢理追い抜いたり、狭い店内ですれ違い様にぶつかって何も言わずに通り過ぎたり、ということは今でもなくなっていないんですが、かなり稀なことになってます。やってしまった後は特に騒ぎになることもありませんでしたが、「またやってしまった」という後味の悪さは強く残ります。今では人間関係の幅もそこそこ広がっていて、もっと人に大事にすべきなのに、という思いが涌きます。たまたま友人・知人・仕事のお客様に、ばったり会うこともありますし、「こんなところ見られて恥ずかしい」となるようなことには常々気をつけてます。

 

尊敬できる人を悲しませる・怒らせる、自分の粗野なところを見せたくない、などのブレーキがあって、人に対しての振る舞いを冷静に考えて、抑えるべきものを抑えて、最終的に自分も気持ちよく過ごせるようになるのだと感じながら、少しずつ進歩を感じながら生きております。もちろん、自分の中の道徳心を磨いて、それが自然に行動に現れるようになれば一番ですが。肚の底から怒るべきこともありますが、そんな多くはないです。大抵のことは、「まあいっか」で、自分が譲れば済ませられるもの。

 

という訳で、家の中で考えてばかりの時間が多いここ最近思い出した僕の過去話から、人にやさしく出来るこつ、でした。些細なことでイライラしそうな時は、尊敬できる人、大切な人を思い出しましょう。

 

以上