ヨギー(ニート脱却)の日々(2017年4月30日以降)

「今(2017年4月30日以降)はもはやニートとは言えないほど働いてるけど心はニートの味方です」なヨギーの日記

疑うことと否定することは違う

テレビのニュースでやってましたが、アメリカ大統領選、トランプが勝ったそうですね。異性のいい発言を繰り返してましたが、実際に政治を動かしていく中でどれくらい実行できるか、ちょっと楽しみにしてます。個人的にはTPPに関しては中止にしてくれたらありがたいと思ってます。

 

では今日の話。疑うことと否定することとは違うっていうことについて。疑うってことは物事の真偽を自分で考えるためにしないといけない作業で、良い悪いって話にしちゃいけない。否定は言葉の通り、「それは違う」って言うこと。特に根拠なく何かを否定するのはまあ良くない。この二つは全然違うものなんだけど、これまでに疑うってことがなんか悪いことなんじゃないか、否定することと同じようなことなんじゃないか、と感じさせられることがたびたびあったので、自分の意見を言っときます。特に宗教的なものに関してはこれが多い気がしてるので。

 

創価大学にいる中で疑うことが悪いことだという雰囲気を感じたのは、例えば色々行事があって、その行事にやる意味があるのか、というようなことを思って口に出したときとかです。その行事に関わる学生はみんな「頑張って最高のものにしよう!」みたいな雰囲気なんですが、自分はそれになじめず、なんでこんな盛り上がってるのかなーと思ってました。この行事成功して何かあるの?と思ってました。で、それを結構そのまま口にしたら、なんか雰囲気悪くなっちゃって。誰も表立って何か言ってきたりはしませんでしたが、どうも裏で「あいつこんなこと言いやがった」みたいなことがささやかれてたみたいで、それを聞いて「直接言えよ」とちょっと腹立ったりしました。それはいいんですが、自分は「こんなのやっても意味ねえよ」と言った訳ではなく、意味あるの?と自分が思ってたことを言ったまでで。それがなんかそれを否定したみたいに捉えられて言葉って難しいなーと感じ入るしだいでした。

 

じゃあそんなの参加しなきゃ良いじゃん、って思うんですが、なんかのりで入っちゃうんですよねー。この大学の人ってほんといい人ばっかなので協力したくなるんですが、こういう行事ものって拘束時間も長いので、参加するっていつも軽いのりで入っては後悔するの繰り返しです。で、大学の最初の方に嫌な経験があるので、最近はこういう発言にかなり慎重になってます。でずっと自分の中でもやもやして「早く帰りてー」って思ってると。

 

宗教の教えとかって、「これは疑ってはいけない」みたいなのがあるんですが、そんなの「なんで?」って遠慮なくきけばいいんだと思います。キリスト教徒だった内村鑑三は、自分が本当に信じるものならどれだけ疑ってもその疑いを解消できる、むしろ疑うことを恐れるというのはそれが間違っているかもしれないというのを薄々感じているということだ、みたいなことを言ってます。疑うことを禁じるってのは「これはこういうものだ」と思考停止に追いやるもので、「それはルール違反だぜ」って言っていいやつだと思います。そういう風にして、自分が納得できるまで「なんで?」って問うのは良いことだし、周りはそれに答えたり一緒に考えたり、要はそういう考え方と話し合える状態でいる必要があると思います。ただ、数年かけて学んだことがあるとしたら、言い方には注意するべきという事ですね。

 

以上