ヨギー(ニートと社会人の狭間)の日々(2017年7月4日現在)

週三で警備バイトをしながらのほほんと生きているヨギーの雑記

ああ、カマキリが死んでいる

最近はカマキリを良く見かける季節です。カマキリが食用になってたら今頃の旬の食材にカマキリがあがってたことでしょう。そんなカマキリが残念なことに道路でぺしゃんこになってるのをよく見かけます。いや別に「もう食べれない、もったいない」とか思ってる訳ではなく。自然の中では生き物の死は別の生き物の糧になるんですが、アスファルトの上でつぶされて乾燥して染みみたくなっているカマキリの死体になんの意味もないよなーと思うとなんか悲しくなる訳です。

 

僕がこんな話を友人と直に会ってしだすと、ただでさえまともでないと思われてるのにこれ以上ついていけなくなるのかと思われるだけだと思うんでこういうかたちで話題にしてるわけです。でも考えてみれば、なんで僕がカマキリの死にこんなに感情が動くのかと言うと、自分がカマキリに関して思い入れがあるからなのではと思います。幼少期に虫を捕まえていたころ、僕にとってカマキリが結構レアな昆虫だった記憶があります。バッタより数は少なく、なにより見た目がかっこいい。虫かごのなかにカマキリとバッタを閉じ込め、カマキリがバッタを補食する様子を観察するほどカマキリ贔屓でした。だから虫取りに出かけてカマキリをみつけると「カマキリ出たー!」と盛り上がってました。

 

自分にカマキリに関する思い出が色々あるんで今こんなにぺしゃんこになったカマキリを見てしょぼんとなるんでしょう。だから道路の真ん中でのんきに居座ってるカマキリを見かけたりすると、道ばたの草むらまでつまんで運んだりしてます。そうやって一人カマキリ愛護をしている最近です。

 

この話を膨らませて、今世界のどこかで死んでいる人たちのことを考えてみます。アフリカの貧困、インドのスラム街、シリアの紛争、とかとか。人が死んでいるというのは問題だと思うし、なんとかしようと行動している人もいます。でも僕は全く何もしてません。将来的にもなにかしようと計画を立てている訳でもないです。なぜか。その人たちとの関係性を持ってないか、自分で感じてないからだと思います。でも例えば僕の友達が死にそうで苦しんでるとなると確実に何かすると思います。

 

多分僕がカマキリの死体を見て感じる以上の同情や悲しみを、世界のどこかで死んでいる人たちに持っているかというとそうじゃない気がしてます。だからなんの行動にも及ばないままなのかと。そういえば、熊本で地震が起きた一週間後とかに家で晩飯を食おうとしたとき、「今熊本で被災した人たちはろくに食べるものもないんだろうな」と思うと十秒くらい箸が止まりましたが、そのあと特に何もしませんでした。「まあいっか」で過ごしてしまうくらいの意識。

 

人が戦争や飢餓や病気で死んでいくのは問題だとはわかっていても何かしようと思うほどの同情とかは感じない。自分とその人たちとの関係がないとそういうのは無理なんじゃないかと思います。距離的な遠さもあるとなおさら何かをするのに気が引けるってのもあるのかと。とりあえずその場に行ってみるっていうのは、自分の関係性の中に対象を置くって意味で重要な事なんだと思います。

 

と考えてみたけど、無関心もあるかもだけどもなにより手軽にできる支援の方法がないのがやっぱ一番の原因なんじゃないかと。目の前のカマキリを危険地帯(道路)から運び出すくらいの感覚で出来る何かがあればやっぱいいんじゃないかと。カマキリからここまで話が広がった今日でした。

 

以上